
森嶽神社(もりだけじんじゃ)では、
毎年5月5日のこどもの日に、
その年の厄年の男女や
新婚夫婦などが
無病息災や家内安全を願い、
神社の板戸に向かってお金を撒き、
子供たちが撒かれたお金を
夢中になって拾う
「じぇんこまき」が
賑やかに行われます。
このお祭りは、江戸時代初期の
ある出来事が起源と言われています。
横手城代、
伊達左門宣宗公(だてさもんのぶむねこう)が、
切支丹(きりしたん)の取り締まりに
絡んだ大眼宗事件(だいがんしゅうじけん)の
責任を取らされ
改易処分となり、江戸に出奔、
お家は断絶となりました。
宣宗公の妻は、
佐竹南家(さたけみなみけ)
湯沢城代(ゆざわじょうだい)
佐竹義種公(さたけただしたねこう)の
娘でしたので、
生れたばかりの子と共に
実家の佐竹南家に身を寄せ、
その後、森村の肝煎(きもい)り
横山九右衛門(よこやまくうえもん)宅に
預けられました。
宣宗公は、改易から7年後
板井田村水沢
(現在の横手市大森町)に帰り、
森村から妻子を迎え
共に暮らしました。
そして寛永8年(1631)
自然丸が生まれましたが
翌年宣宗公が死亡し、
妻は再び二人の子を連れて
森村の横山家に身を寄せました。
横山家の裏の森嶽山には
古くから弁財天が祀られていました。
弁財天は、農業又は商売の神様として
近郊近在の信仰を集め、
往時の河川交通盛(さか)んなときは
水上安全を
祈願する者も多く
参拝したと言われています。
時に、自然丸とその母は
伊達家の再興を願って、
朝に暮れに毎日かかさず
弁財天にお参りをしました。
そのとき小銭を散らし、
それを村の子供たちが
拾い賑わったのが
「じぇんこまき」の起源と
言われています。
寛永13年(1636)
又三郎(またさぶろう)と
改名した自然丸は、
湯沢城代2代目
佐竹義章(さたけよしあき)公の
恩免(おんめん)の仲立ちで、
初めて久保田藩2代目藩主
佐竹義隆(さたけよしたか)公に
拝謁(はいえつ)し、
寛永21年(1644)正月1日には
佐竹一族の席に
付くことを許され、
560石(こく)の知行(ちぎょう)を得て、
伊達家は遂に再興しました。
寛永23年(1646)
15歳になった又三郎は元服(げんぷく)し、
久保田藩主佐竹義隆公から
一字を賜って
伊達隆宗(だてたかむね)と
名乗りました。
亀田藩に仕官(しかん)がかなった時、
伊達家再興の御礼として
森村の弁天様に杉700本を寄与し、
沼倉五右衛門(ぬまくらごえもん)に
植えさせたと伝えられています。
なお、森合(もりあい)の
胸形神社(むねかたじんじゃ)では、
5月4日に
「じぇんこまき」を行っています。
