湯沢市弁天地域歴史探訪

大島原合戦

大島原合戦
(おおしまばらがっせん)


 文禄5年(1596)3月、 出羽国(でわこく)山北(せんぼく) (現在の雄勝郡(おがちぐん) 平鹿郡(ひらかぐん))の 領主、小野寺義道(おのでらよしみち)と 出羽国最上(もがみ)の領主 最上義光(もがみよしあき)は 雄勝地域の支配を巡り、 双方合わせて1万人近い兵が 大島原(大島地域)で 激しい戦いを繰り広げました。

この合戦の背景には、 豊臣秀吉による奥羽検地(1590年)と、 それに伴う百姓一揆の発生があります。

検地に反発した農民たちは 増田(ますだ)・山田(やまだ) 川連(がわつら)などの城に集結し、 上杉景勝(うえすぎかげかつ) 大谷吉継(おおたによしつぐ)の軍勢と衝突。 2千人近い犠牲者を出して 鎮圧されました。

一揆の責任は 当地の領主小野寺義道に向けられ、 天正19年(1591)、秀吉はそれまで 小野寺の領地であった 湯沢及び増田周辺を 最上義光に与えました。

文禄4年(1595)8月、 最上氏は雄勝地域へ軍を進め 実行支配を開始。

しかし、小野寺方の湯沢城主 小野寺孫七郎(おのでらまごしちろう) 孫作(まごさく)兄弟や 岩崎城主 河内守道髙(かわうちかみみちたか)は これに従わず、 最上軍と激しく戦って ついには討死し落城しました。

翌年3月、小野寺義道は反撃のため 軍勢5千人余りを率いて 浅舞に滞陣し、 翌日未明を期して植田、 川熊を通り 小森山(こもりやま)に 7手に分れて陣を敷き、
岩崎の押えには 馬倉城主等を将として
軍を向わせました。

最上方の 楯岡豊前守(たておかぶぜんのかみ)は、 前森(ぜんもり)廓(くるわ)の外に
幔幕(まんまく)を張廻し、 岩崎には 原田大膳(はらだだいぜん)が入り 小野寺勢を待ち構え、 辰(たつ)ノ(の)刻 両軍は大島原で激突しました。

戦闘は各所で展開され、 槍や長刀(なぎなた)による 白兵戦が繰り返されました。

小野寺方の長柄組(ながらぐみ)の奮戦や
高田右馬介(たかだうまのすけ)と 最上方の秋山兄弟との一騎打ち、 佐竹兵庫頭(ひょうごのかみ)らの 勇猛果敢な戦いなどがあり 両軍優劣つかないなか、 最上軍は岩崎勢などを合わせ 包囲戦術を用いて 小野寺軍を崩し追撃を加えますが、 小野寺方も植田与九郎(うえだよくろう)らが 燕橋(つばめばし)で激しく応戦し 陣を立て直しました。

戦いはこれまでと楯岡豊前守は 湯沢に帰陣し、 小野寺義道も細砂川(まさごがわ)を 渡って植田に退陣しました。

両軍ともに多くの死傷者を出し、 小野寺方は退却を 余儀なくされました。
その後、川熊・植田(うえだ) 鍋倉(なべくら) 荒田目(あらため) 今泉(いまいずみ)の各城は 次々と最上氏の手に落ち 雄勝・増田地域は 最上氏の支配下に 置かれることとなりました。   





トップページへ戻る